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1月 20

JSEM電子音楽カレンダー/2016年1月のピックアップ

 

JSEM電子音楽カレンダーでは、担当の川崎弘二が、カレンダーに掲載されている各種イベントを「今月のピックアップ」として月イチでご紹介しております。

2016 年 1 月に開催されるイベントから、今回は趣向を変えて、川崎がお手伝いしているイベントを紹介させていただきたいと思います。

ということで、1月29日(金)に、京都芸術センターにて開催される「檜垣智也 アクースマティック作品による 音の個展」をピックアップいたします。このコンサートに映像でご参加される映画監督の七里 圭さんから、電子メールでコメントをいただきました。

 

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檜垣智也 アクースマティック作品による 音の個展
日 程:2016年1月29日(金) 19:00開演
会 場:京都芸術センター
料 金:前売:2,000円、当日:2,500円、学生:1,500円

http://kojiks.sakura.ne.jp/higaki.html

 

■七里監督は、映画のサウンドトラックについて次のように述べています。

サウンドトラックとは、映されている映像と同じ時間の音の連なりです。
見えているものと聞こえてくるものが、実は分離しているのにシンクロしているから、
人はある世界をそこに感じ、没入してしまう。
それが映画の時間なのだと思います。
この面白さ、不思議さを噛みしめています。
おそらくサウンドトラックという発想は、芝居や踊りの伴奏から、
ごく当たり前に生まれた方式なのでしょうが、それが生演奏や語りではなく、
録音された音に置き換えられたことによって独特のものに変質したのです。
光も音も同じメディアに情報として記録されるようになった今、
映像からサウンドトラックを意識的に引き離し、同期することを体感してみようと言うのが、
このライブ「映画としての音楽」のコンセプトの一つです。

 

■上記した七里監督の文章にもあるように、七里監督は数年前から映画を音から作り始めるという実験に取り組まれており、2014 年4月にライブ「映画としての音楽」が開催されました。そして、このライブで上映された素材などをもとにして、映画版「映画としての音楽」が製作されました。2014 年 11 月に公開された映画版「映画としての音楽」は、2015 年4月に檜垣智也さんの手によってアクースモニウム上映が行われています。

 

■そして、「映画としての音楽」は、オスカー・ワイルド「サロメ」が下敷きになっています。「サロメ」についての関心を七里監督は次のように説明しています。

この戯曲への関心がぼんやりながら高まってきたのは、三年ほど前。
時代の転換点を経験した後のことでした。
ヘロデ王の娘が母のために預言者ヨハネの首を求める、聖書に記されたエピソード。
それが、ワイルドの戯曲が成立する以前から 19 世紀後半の文学や美術の題材として
(とくにフランスで)もてはやされていたと知り、なぜだろうと思いました。
時代の気分――いわゆるデカダンスを象徴したがゆえと解説されていますが、
ではそれはどういう時代だったか考えてみれば、
資本主義が西欧先進国に浸透して、写真やレコードといった複製文化が誕生したころ。
つまり、20 世紀以降、現在に至るまでの社会や文化を準備した時代でした。
そんなことを、のんびりつらつら思い巡らせて一年ほど過ぎたころ、
不覚にも初めて、日夏耿之介訳の「院曲撒羅米」を読んだのです。
衝撃的でした。
研ぎ澄まされた一語一語が喚起する、ただならぬ情感、情景。
文章から、リズムや旋律までもが感じられ、すでに音楽のようでした。
ああ、これだ! と思い“音から作る映画”という構想が一気に浮かんだのです。

 

■その後、2015 年3月には「音から作る映画 2」として七里監督の構成・演出による「サロメの娘」が上演されました。「サロメの娘」では音楽とアクースモニウム演奏を檜垣智也さんが担当され、映像は、紗幕を利用したアナログな方法による3D上映が試みられています。2015 年8月には「サロメの娘」の改訂版がフランスの FUTURA 音楽祭にて上演され、そして、「檜垣智也 アクースマティック作品による 音の個展」において、この改訂版が日本で初めて公開されます。今回の「サロメの娘」の上演について、七里監督から以下のコメントを頂戴しました。

FUTURA で上演された改訂版は初演と何が変わったのかというと、サウンドトラックの一部に音の厚みが増したことと、作品の終始続く語り――1万字を越える日本語テキストの全てを英訳した膨大な字幕を、フレームの上下、そしてプロジェクションの手前と奥をフルに利用し出し続けたことでした。

判読可能かどうかを敢えて考慮せず、現れては消える怒涛のテロップは、英語を母国語としないフランスの人々には、物語を追うことを諦めさせるに十分な効果があったようで、「何だか分らないけど詩だということは分った」というある人の感想(それは実に正しい)の通り、断片的に意の取れる言葉と闇の間に映像がぼんやり浮かび、アクースモニウムで拡張された空間音響と絡み合う、特別な『サロメの娘』の上演になったのでした。

今回の京都上演では、そうした効果は望むべくもないので、もちろん英字幕は一切出しません。けれど、ならば初演と同じものかというとそうでもありません。生まれてから早一年が経つ『サロメの娘』は、成長して、そろそろもう一つの顔を見せることになります。今回は、その変化を暗示する上演になる予定です。

 

■改訂版上演のご成功をお祈りしております。コメントどうもありがとうございました。

 

※引用はすべて、ライブ「映画としての音楽」初演時のプログラムより

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